chinda_fall_desu’s diary

竹内豊の日記

ヒューマンコンピューターインターフェースをもっと知りたいなー

目的とは何か

共同体を軸に考える。目的は共同体によって与えられる。
我々人類は生まれた瞬間から人類共同体の目的を与えられる。例えば性欲は人類共同体の目的に沿うものといえる。
そして成長と同時に新たな共同体を次々に属すようになり、その共同体から目的が与えられる。例えば家族共同体のために言語を学び、地域共同体のためにボランティア活動を行う。
共同体によって作れた死生観によって死ぬ直前までの目的が固められる。例えば軍人は命を懸けて国家共同体のために戦う。
共同体から離れ、個人として自己を考えてしまうと目的を見失う可能性がある。

正しさとは何か

共同体を軸に考える。
共同体は自らの持続、発展を望む。「正しさ」は共同体が構成員を裁くためのものであり、構成員は共同体の持続、発展のために行動する。

例えば、自分の行為が家族共同体の「正しさ」によって裁かれることもあれば、国共同体の「正しさ」(法律)によって裁かれることもある。日本国民共同体において「正しい」場合でも、アメリカ合衆国民共同体で「正しくない」場合もある。それによって人類共同体によって裁かれることもある。より広く考えれば、人類共同体が生物全体の共同体の「正しさ」によって裁かれる可能性もある。


共同体の存続のために「正しさ」は常に変化する。「正しさ」の再定義のために哲学は存在する。政治哲学によって国共同体の「正しさ」を、生物哲学によって人類共同体の「正しさ」を考え直す。



 政治哲学についての話 ↓ 
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『ハーバード白熱教室』を見て、共同体について考える⑫(第十二回 善き生を追求する)

「共同体」を考え方の軸にして自分の考えを文章にしてみる。
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この講義は政治哲学についての授業であった。結局政治とは何なのか。大統領や政治家というのは国という共同体の存続のために存在する。歴史に沿って共同体を考えると、対立する共同体から、(他の敵対する共同体の存在などを理由に)手を取り合い、一つの共同体になり、その中での共同体の衝突を防ぐためにその共同体内の画一化が起こっている。昨今のグローバリゼーションもその流れに沿っているといえる。f:id:chinda_fall_desu:20200420191557p:plain
国という共同体内の小さな共同体の衝突(絶対王政の打破など)からリバタリアニズムリベラリズムが生まれ、個人の自由と権利を主張するようになった。しかし、個人の自由と権利を尊重しすぎるようになると、今度は国という共同体の存続が危うくなる。国という共同体を守るためには国という共同体の目的を考え、国への貢献を意識するようにしなければならない。
政治について考えるときは上記の図のXとYの間の最適な地点を考えなければならない。例えば、宗教の共同体についていえば、ジョンFケネディは政治に自分の宗教的信念を持ち込まないようにし、XからYの方向に共同体を変化させたが、逆にバラクオバマは政治に自分の宗教的立場を取り込み、YからXの方向に共同体を変化させた。

政治哲学を離れると、今度は国という共同体とは何かを考えなければならない。国とは何なのか。Yより右に行くことはないのだろうか。

『ハーバード白熱教室』を見て、共同体について考える⑪(第十一回 愛国心と正義どちらが大切?)

「共同体」を考え方の軸にして自分の考えを文章にしてみる。
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以下を原理として論を展開する。
原理:【共同体は自らの持続、発展を望む。「正しさ」は共同体が構成員を裁くためのものであり、構成員は共同体の持続、発展のために行動する。】


「人間は本質的に物語を紡ぐ」という物語的観念というマッキンタイアの考え方は、共同体で考えれば「人間は共同体の文脈に沿って働く」という意味といえる。また、「個人として善を求め、美徳を実践できない」は「共同体によって「正しさ」がつくられる」を意味するといえる。そしてこれら共同体のつながりから彼は先祖の罪を償うことは当然であると主張した。先祖の罪についてどのような立場があるだろうか。


X共同体に対するY共同体の行いがZ共同体によって罰せられる状況を考える。Aが先祖Bに対する罪を認めない立場は以下の三通りある。
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1.先祖Bの行いが悪いとは思っていない。
2.先祖Bが同じ共同体にいるとは思っていない。(時間による分離、価値観の変化による分離)
3.Y共同体は存在しない。→道徳的個人主義者の考え方(自分が選択した義務のみを引き受ける)


このうちマッキンタイアが反対している主張は3である。彼は3の考え方はリベラリズムの自由と義務の考え方の誤っている点であると主張した。具体的に言えば、リベラリズムの考え方では(1)人間に対して負う義務と(2)個人的な義務の二つしかないと考えるが、コミュニタリアンは(3)集団としての構成員としての義務があると主張する。(これを共同体で考えると、(1)は人類という共同体への貢献の義務を意味し、(2)は人類共同体より小さな共同体への貢献の義務を意味する。そして(3)は(2)を具体的に述べたもので、自分の属する共同体への貢献の義務を意味する。)


共同体で考えれば、リベラリズムとコミュニタリアリズムの違いは、リベラリズムが人類共同体への貢献を重視し、その他の共同体が不要と考えるのに対し、コミュニタリアリズムはその他の共同体の現在の影響力の大きさからそれらは重要なのではないかと考える点である。

『ハーバード白熱教室』を見て、共同体について考える⑩(第十回 アリストテレスは死んでいない)

「共同体」を考え方の軸にして自分の考えを文章にしてみる。

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(前半)
アリストテレスの政治に対する考え)
論理的に展開するためにはまず原理、公理が必要。そこでアリストテレスは政治共同体の目的を次のように定めた。「政治とは善い人格を形成すること。市民たちの美徳を高めること。つまり善き生をもたらすもの。」
だが、善いかどうか、美しいかどうかは共同体が決めることであるので、より具体化すれば、「政治共同体の目的は共同体の持続発展のために、市民が正義、徳を考え、それを目指すようにすること。」といえるのではないか。


次にアリストテレスは「孤立しているものは獣か神に違いない。」と考えていたことから、彼は人間は何かしらの共同体に属するものであると考えていたとわかる。また、「言語能力の発揮が人間を人間足らしめる」という考えから彼は言語能力の有無を人類共同体の境界として考えていたことがわかる。
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次に美徳と名誉について。アリストテレスが「美徳は実践によってのみ得られる」と考えるのは、美徳がそれぞれの政治共同体によって異なることを意味する。本で得られる美徳はその著者の共同体の美徳であり、自分の共同体の美徳とは異なる。
「美徳を持つものを選び、名誉を与えることも、政治の重要な点の一つ」ということから、「名誉」は共同体の構成員が共同体の「徳」に沿った行動をしたときに共同体によって与えられる報酬であるといえる。



(ケイシー・マーティンのゴルフカートについての話)
ゴルフの例について共同体を軸に考える。ゴルフカートを使わせないことは差別なのだろうか。下記の記事の考えを踏まえつつ考える。
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アメリカ合衆国という政治共同体において、身体の違いは無視されるべきと考えられる。なのでこの共同体ではこの例は身体障害に対する差別であるとされる。対して、プロゴルファー共同体は身体能力、身体的特徴が近い者の集まりである。なのでこの共同体では差別とはされない。
解決法は下記の二つしかないと思う。
①プロゴルファー共同体を拡張する
→ゴルフカートの使用を認め、身体能力の多様性を増加させる
②別の共同体をつくる
→身体障碍者ゴルファー共同体をつくる
アメリカ合衆国政治共同体の「正しさ」によってこれが裁かれる。小さな共同体をどれほど尊重するかで決まるだろう。
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目的論への反論を考える。アリストテレスは笛は吹かれることが目的なので「最もよい笛は笛を最もうまく吹ける人に渡るべき」と考える。しかし、目的は共同体によって決まるはずである。共同体が設けた目的なら笛を打楽器として扱うことはその共同体にとっては「正しい」。
ゴルフの例においても同様に反論できる。スカリア判事は政府共同体が考える目的とプロゴルファー共同体が考える目的には差があるので、プロゴルファーの目的を持ち出して裁こうとするのは間違いであると述べた。
(前半終わり)


(後半)
ゴルフの例で名誉について考える。名誉とは共同体によって与えられるもの、共同体からの報酬である。アメリカ合衆国という共同体ではスポーツを行うことが名誉である。なのでプロゴルファー共同体はアメリカ合衆国共同体にとって名誉ある共同体であるといえる。例に戻る。もし②を選択した場合、プロゴルファー共同体の名誉は損なわれないが、①を選択した場合、その共同体が名誉ある共同体ではなくなる可能性が生じる。
(後半終わり)

多様性とは何か

共同体を軸に様々な概念を解釈してみる。
今回は最近よく聞く「多様性」について考えてみる。


ある人の目的が共同体の目的と一致している場合、価値観や倫理観などの差に目をつぶり、共同体がその人を受け入れることがある。その際に認める価値観や倫理観などの差の度合いがその共同体の「多様性」である。


例えば、野球共同体において「一緒に野球を行う」という目的を共に目指せる場合、国籍の差、年齢の差などに関係なくその共同体に入ることができる。
今日のグローバル社会においては「人類への貢献」という目的を共に目指せる場合、人種の差、宗教の差、年齢の差などに関係なくその共同体に入ることができる。
そしてこの共同体の中で人種の差や宗教の差を持ち出すことを「人種差別」、「宗教差別」という。

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イジリとは何か

共同体を軸に様々な概念を解釈してみる。
今回は「いじり」について考える。


共同体は価値観や倫理観、能力の近い者で構成されている。
それに合致する者はその共同体に入れる。それがまったく違うものはその共同体に入れない。
例えば、ある仲良し共同体に同じ小学校の同じクラスの生徒は入れるが、ある知らない大人はそこには入れない。
ほとんど同じだけど少し違うものには拒絶反応が起きる。共同体に異物が混入しそうという懸念からである。
例えば、小学生と同じような知識や価値観をもつがロボットのペッパー君はその仲良し共同体には入れないどころか、酷く拒絶される。


少しの違いを許容できるために行うのが、「いじり」であり、自虐である。これによって共同体との価値観の合致を示す。
例えば、見た目のまったく違う外国人の小学生は価値観や倫理観が合致していれば、自分の容姿を自虐的に表現することによって、その仲良し共同体に入ることができる。
しかし、「いじり」によってどれほどの違いを許容できるようになるかはわからない。
例えば、ある知らない大人はいくら自分を自虐してもその共同体には入れない。


ペッパー君であっても自分の容姿や所作を「いじる」ことで、ある人間による共同体に参加することができるようになるのかも知れない。