chinda_fall_desu’s diary

竹内豊の日記

ヒューマンコンピューターインターフェースをもっと知りたいなー

『ハーバード白熱教室』を見て、共同体について考える①(第一回 殺人に正義はあるか)

「共同体」を考え方の軸にして自分の考えを文章にしてみる。


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「正しさ」は共同体によって決まると思う。日本国民の共同体とアメリカ国民の共同体とで「正しさ」は異なるし、自分の家族という共同体と学校の共同体とでも「正しさ」は異なる。「正しさ」、「正義」は共同体がそこに属するもの(構成員)を裁くためのものであると考える。構成員は「正しい」と思う行動をとり、共同体が「正義」によってそれを裁く。


この授業はいくつかの例をもとに自分の共同体(ここではハーバード大学生共同体や若者共同体、もしくはアメリカ人共同体など)の「正義」がどのようなものであるか、どのような規則性を持つかを探る試みであるといえる。最初の例でまずマイケルサンデルは自分の共同体での「正義」に「帰結主義」や「定言的な考え方」という規則性を見出した。


(サンデルが述べるこの授業のリスクは、上記の考え方にも当てはまるだろう。「哲学というものは人を社会から距離を置かせ、衰弱させるような活動である」とサンデルは言う。これは社会、共同体を俯瞰的に見るには、その共同体から一度抜け出す必要があるということに通ずるのではないか。共同体から抜け出すことはその共同体の「正しさ」を追求しないことを意味するが、再び共同体に戻れば以前よりも「正しさ」を追求しうるかもしれない。これがサンデルの言う「よい市民になる過程で一旦悪い市民になってしまう可能性がある」の意味だと思う。そして悪い市民である状態では共同体に貢献していないのでこの状態では「ビジネススクールに行け」と非難されるだろう。)f:id:chinda_fall_desu:20200323190435p:plain


最初に言った通り、「正しさ」は共同体によって決まると思う。途中で功利主義の話が始まったが、これはあくまである共同体の性質を述べたに過ぎないのだと思う。つまり、ある共同体の「正義」には功利主義の側面が強い、といった表現が正しいのだろう。また、功利主義は事象を分解可能であると考えているが、曖昧さを感じる。快楽を足し、苦痛を引くことで計算するといっても、どのようにして事象から快楽の要素を取り出すのだろうか。要素の取り出しには事象を分解していかなくてはならない。例えば船乗りの場合、三人の生還から一人の犠牲をひくと二人なので「正しい」と言えるし、殺される苦痛は餓死する苦痛の100倍であるとすれば「正しくない」。何も解決してはいないのではないか。


少し考えてみるとそうとも言えないかもしれない。共同体の構成員であるベンサムは共同体の持続、発展のために大衆に概念の曖昧な功利主義を広めたのかもしれない。ベンサムが共同体を俯瞰的に見て述べたものか、共同体の構成員として述べたものかによって意味合いは変わる。


話を戻して、この講義を受けている人々の共同体の「正しさ」にどのような規則性があるか。人権が影響を与える。手続きが影響を与える。同意の有無が影響を与える。このことが分かった。


第一回おわり


(間違い等あればコメントよろしくお願いいたします。)