『ハーバード白熱教室』を見て、共同体について考える③(第三回 “富”は誰のもの?)
「共同体」を考え方の軸にして自分の考えを文章にしてみる。
第二回の授業で出された意見に「少数派がないがしろにされている」、「少数派にも権利がある」という意見があった。これは功利主義に対して個人の権利が尊重されていないことが「正しくない」とする意見である。この個人の権利という考え方はリバタリアニズムと関係していることが分かった。このリバタリアニズムについて考えていく。
これまでと同様に以下の共同体の原理を踏まえて論を展開する。
原理:【共同体は自らの持続、発展を望む。「正しさ」は共同体が構成員を裁くためのものであり、構成員は共同体の持続、発展のために行動する。】
リバタリアニズムにおいて人は独立した存在であり、自由である権利を持っていると考える。この考えのもとでは、人々は皆すべての共同体を取り込む一つの共同体の構成員となり、その共同体における「正しさ」が存在する。この考えのもとでは他の共同体の存在は不要であり、例えば国という共同体の干渉に対して批判的であり、他の共同体の美徳、道徳などの文化的な側面に対しても批判的である。
現在、自由市場という共同体の中に国という共同体が存在する。民主主義国の共同体の「正しさ」はその国民の投票によって決められるが、リバタリアニズムにおける「正しさ」はすでに決まっていて、リバタリアンは他の共同体の「正しさ」を不要であると考える。その一つとして課税が挙げられた。課税は国という共同体の「正しさ」によるもので国という共同体に貢献するためのものである。したがって、これはリバタリアンにとって不要のものである。
リバタリアニズムにおける法、つまり「正しさ」にどのような規則があるのだろうか。ひとつは自己所有の原則である。この原則に従えば個人の行動は共同体によって規定されなくなるので、共同体の「正しさ」の効力は失われる。これに対してヴィクトリアは個人は何かしらの共同体に属すので、共同体に貢献しなければならず、完全に独立した存在にはなり得ないという立場をとり、自己所有の原則に対して異議を唱えた。次の授業でこの自己所有の原則について深掘りするようである。
日本について考えると年功序列、終身雇用の崩壊、副業の解禁などでこれまでの共同体が破壊され、より大きな共同体に移行していることがわかる。これはリバタリアニズムに沿って時代が進んでいるということだろうか。
(第三回 終わり)
(間違い等あればコメントよろしくお願いいたします。)